アンリ・マティス(1869-1954年)

アンリ・マティス 略歴(作家名をクリックすると、Yahoo及びGoogleにて検索します。)
1869年 北フランスのカトー・カンブレジで生まれる。
1890年 盲腸炎をこじらせほぼ1年間の療養生活を送る。その間、油絵の道具を母親から与えられ、絵画制作を開始する。
1891年 画家になることを決意し、反対する父親を説得してパリに行く。アカデミー・ジュリアンに入学。
1892年 アカデミー・ジュリアンをやめ、エコール・デ・ボザールのギュスターブ・モローの教室に通う。
この頃、師モローのすすめでルーブル美術館の古典作品の模写を多く行う。またルオー、マンギャン、マルケらと知り合う。
1897年 カイユボットコレクションの印象派作品に触れ、関心を寄せる。この頃ピサロと知り合う。
1898年 アメリー・パレイルと結婚。新婚旅行でロンドンに行き、ターナーの作品を見る。コルシカ島とトゥルーズにそれぞれ半年ほど滞在、明るい南仏の光に接し、画風が変化したといわれている。
1899年 ヴォラール画廊からセザンヌ「水浴する三人の女」、ゴッホの素描などを購入する。この頃セザンヌの影響を強く受ける。
1900年 経済的に苦しくドランとともに万国博覧会の装飾に参加する。ドライポイントによる最初の版画を手がける。
1904年 ヴォラール画廊で初の個展が開かれる。夏をアンデパンダンの指導者的存在シニャックらとともにサントロペで過ごす。
1905年 『豪奢、静寂、逸楽』をアンデパンダン展に出品。サロン・ドートンヌでドラン、マルケ、ルオー、ヴラマンクらと同じ部屋に展示され、その様子が批評家ルイ・ヴォークセルによって「フォーブ(野獣)の檻」と呼ばれる。
1906年 ドゥルエ画廊にて2度目の個展を開催。ガートルード・スタイン宅でピカソと知り合う。
1908年 ニューヨーク、モスクワなど国外での個展が相次ぐ。「画家のノート」を発表する。
1910年 サロンドートンヌに『ダンス』と『音楽』を出品する。ミュンヘンのイスラム芸術展を見る。
1912年 モロッコ、タンジールへ旅行。翌年ベルネーム・ジュンヌ画廊でモロッコ滞在の成果を発表する。
1916年 この頃よりイッシーとサン・ミシェル河岸、ニースを往復することが多くなる。モデルにイタリア人、ロレットを使うようになる。
1918年 ポール・ギョーム画廊にてピカソと2人展を行う。ニースに改めて部屋を借りる。
1920年 アンリエット・ダリカレルをモデルに作品を描く。「オダリスク」を主題とした作品が増える。
1921年 ピッツバーグで開かれたカーネギー国際展に招待される。夏をエトルタで過ごした後、ニースへ行きシャルル・フェリクス広場にアパルトマンを借りる。以降、ニースとパリそれぞれ半年ずつ生活する年が多くなる。
1922年 この頃よりリトグラフ「オダリスク」シリーズの制作を開始する。
1927年 画商をしている息子ピエールによる個展がニューヨークで開かれる。カーネギー国際展に出品した5点の作品のうち1点が大賞を受ける。
1930年 アメリカへ旅行。この年バーンズ博士から財団の建物装飾(壁画『ダンス』)を依頼される。
1932年 『ダンス』完成。しかし大きさが違っていたためやり直しとなる。
1934年 ジョイス『ユリシーズ』の挿画(エッチング)を制作する。
1936年 『ダンス』制作の頃から助手を務めていたロシア女性、リディア・デレクトルスカヤがモデルとなる。
1937年 ロシア・バレエ団より「赤と黒」(ショスタコヴィッチ音楽、マッシン振り付け)の衣装と舞台装飾を依頼され、最初の切紙絵の制作を行う。
1941年 腸閉塞にかかりリヨンで大手術を行う。ベッドでの制作を余儀なくされる。この頃よりロンサール『愛の詞華集』など出版社からの挿画依頼が多くなる。素描『主題と変奏』シリーズに着手する。
1943年 マティスの看病をしていたモニク・ブルジョワがモデルとなる。彼女は後にドミニコ修道会の修道女となる。切紙絵『ジャズ』シリーズに着手。
1944年 ボードレール『悪の華』挿画制作。
1947年 テリアードから『ジャズ』が刊行される。新設されたパリ国立近代美術館にマティスの重要な作品が収められる。
1948年 ヴァンス、「ル・レーブ(夢)」近くに建立されるドミニコ会修道院のロザリオ礼拝堂の設計と装飾と手がける。(完成は1951年)
1950年 テリアードから『シャルル・ドルレアン』が刊行される。
第25回ヴェネチア・ビエンナーレで大賞を受賞する。 1951年 ロザリオ礼拝堂の献堂式が行われる。東京国立博物館、ニューヨーク近代美術館などで回顧展が開かれる。
1952年 切紙絵『ブルーヌード』シリーズに着手する。生地カトー・カンブレジにマティス美術館開館。
1954年 ニューヨークのユニオン教会のためステンドグラスの薔薇窓をデザインする。(これがマティスの最後の仕事となる。)
11月3日、心臓発作のためニースで没す。


●関連サイト
●作家の言葉
『私が夢見るのは心配や気がかりの種のない、均衡と純粋さと静穏の芸術であり
 すべての頭脳労働者、たとえば文筆家にとっても、ビジネスマンにとっても、
 鎮痛剤、精神安定剤、つまり、肉体の疲れをいやすよい肘掛け椅子に匹敵
 する何かであるような芸術である。』
(1908年 「画家のノート」より)

『私の芸術はすべて知性から生まれると人は言います。
 これは本当ではない ―――――
 私が制作するものはすべて情熱によってやったのです。』
(1951年 クーチュリエ神父へ)


<作品紹介>
もし20世紀の画家で誰か一人だけを選べ、と言われたら、私はピカソではなくマティスを選びます。
フォーブから晩年の切紙絵まで、どの時代でも独創性溢れる質の高い作品を残しています。
21世紀ますます彼の芸術は、燦然と輝きを放つことと思います。

版画制作では驚くべき事にカラー作品がわずか2点のみ、他の数百点はすべてモノクロです。
これはマティスが版画分野でタブローの焼き直しではなく、独自の芸術を目指していたことを如実に現しています。
その上技法を熟知しそれに合った作品を制作しているので、本当に駄作がなく、欧米では高い市場性を誇っています。
過去扱った作品をご紹介します。

マティス「ユリシーズより アイオロス」
マティス
"ユリシーズ"より
「アイオロス」
"ユリシーズ"より「アイオロス」 ソフト・グランド・エッチング 1935年(D.238)

マティス「ユリシーズ」(1935年)

ジェームズ・ジョイスの長編小説『ユリシーズ』の挿絵として制作した6点のソフトグランドエッチングによる作品。
1933年ほぼ3年をかけてバーンズ財団の建物装飾のための壁画『ダンス』を完成させたマティスは、翌年ニースに戻り、『ユリシーズ』の挿絵にとりかかった。マティスはこの本の下敷きになったホメーロス『オデュッセイア』から代表的な場面を抜き出し、6点の銅版画を制作した。 従ってジョイス『ユリシーズ』の挿絵というより、ジョイスとマティスが文と絵で合奏した作品と言える。(※マティスは、ジョイスの本文よりむしろ『オデュッセイア』に関したものである理由を尋ねられた際、「私はそれを読んでいなかったのです。」と答えている。)

こちらの作品、シンプルな線描で描かれているのですが、それが実にリズミカルでまた不思議な緊張感を醸し出しています。

マティス「チュールのスカートをはいたオダリスク」
マティス
「チュールのスカートをはいたオダリスク」
「チュールのスカートをはいたオダリスク」 リトグラフ 1924年(D.443)

『オダリスクは幸福なノスタルジー、すばらしく生命感にあふれた夢、昼夜のエクスタシーにも匹敵する経験が、気候の賛歌のなかで結びつき、実った結果だった。その恍惚感、崇高な気楽さを、趣がある太陽の色と形象のリズムで表現したいという抗しがたい欲求。』
(画家・詩人アンドレ・ヴェルデとの対話で)

「マティスは1920年代に制作したリトグラフにおいて、白と黒の華麗な頂点をきわめた。版画は、マティスの最も美しいデッサンと同様の造形的重要性をもっている。当時マティスは、大部分の時間をオダリスクのデッサンに費やしているが、それは豪華な織物、女性の体が作り出す緊張感、オリエントの謎めいた神秘的な雰囲気などを白と黒のヴァリエーションだけで表現できる格好の題材だった。彼はまたあらゆる支持体を使ってデッサンや版画を制作しているが、とりわけリトグラフにおいて、紙の白さと鉛筆の黒だけを用いて、色を使った制作と同様に満足できる作品を完成している。」
(「マティス、その原点」展覧会カタログより引用 2000年7月メルシャン軽井沢美術館他開催)

こちらの作品はオダリスク連作の中でもよく描き込まれた重厚な作品です。
モデルはアンリエット・ダリカレール、マティスはたいそうこの女性が気に入りこの時期の代表作に頻繁に登場しています。
モノクロのリトグラフですが、みずみずしい生命の輝きに満ちています。


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