長谷川利行(1891-1940年)

長谷川利行 略歴(作家名をクリックすると、Googleにて検索します。)
1891年 京都山科に生まれる。
1911年 『みずゑ』主催の水彩夏期講習会に参加。
1919年 歌集『長谷川木葦集』を私家版で発行する。
1921年 この頃時折上京、生田蝶介との縁で『公団雑誌』に<浄瑠璃坂の仇討>を発表する。 岩田専太郎、矢野文夫を知る。
1923年 新光洋画展に<田端変電所>が入選。
1925年 二科展、帝展に応募したが落選が続く。大阪府主催の第3回大阪藝術展で受賞。
1926年 二科展に<田端電信所>が初入選(反対がほとんどだったが正宗得三郎が激賞)。 帝展に<廃道>が入選。
1927年 1930年協会展に<陸橋みち>他2点が入選。二科展に<酒売場>などを出品し、樗牛賞を受賞。
1928年 1930年協会展に<地下鉄道>などを出品、奨励賞を受賞。
この頃、里見勝蔵、藤川栄子、靉光、井上長三郎、麻生三郎、吉井忠、寺田政明らとの交流が始まる。
1929年 日暮里を離れ、浅草近くのドヤ街に住む。
1930年 二科展に<タンク街道>などを出品する。以後、1937年まで二科展出品を続ける。
1932年 天城俊彦(本名 高崎正男)を知る。(天城は1936年新宿に天城画廊を開き、2年間で10回以上の個展を開催した。)
1935年 アモレ画廊で初の個展。
1936年 天城画廊で5回の個展開催。この年から翌年にかけて、ガラス絵に熱中。
1937年 新宿旭町に移る。一水会展に<ノアノア>などを出品。天城画廊で8回の個展を開催。矢野文夫と大島に小旅行する。
1938年 天城画廊で6回の個展開催。浅草に移る。
1939年 健康状態が目に見えて悪化、ひどい胃痛に悩まされる。矢野文夫の提案で、四宮潤一に一通りの手ほどきをうけて水墨画を制作する。
1940年 5月三河島の路上で倒れ、東京市養育院に収容される。10月12日逝去。
●画家の言葉
『絵を描くことは、生きることに値するという人は多いが、生きることは絵を描くことに価するか。』(1923年 32才)

<コメント>
日本近代洋画史上、最高の作家だと思います。本当に絵を描くことが好きな純粋な「絵描き」ですね。
描かれた人物はどれもみずみずしく、風景は雑踏の音が聞こえてきそうで、どの絵にも生命感が宿っています。
これは彼の絵に対する、そして描かれた対象への切々とした思いが作品に込められているからで、それが私
たちを感動させるのでしょう。
そして彼の作品は古画の名品や欧米の巨匠作品に引けを取らない芸術品としての力を持っています。
500年後の美術史家はおそらく世界最高の巨匠の一人として評価することでしょう。


 2016年11月開催 長谷川利行展レビュー
 


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※コラムもご覧ください。(過去当画廊で扱った作品も一部ご覧いただけます。)
 ・長谷川利行「浅草風景 ロック座」1
 ・長谷川利行「浅草風景 ロック座」2
 ・長谷川利行の女性像


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